ホロホロの本質が変換したように感じた、とあるオタクの哀哭


これはシャーマンキング(通称マンキン)に登場するキャラクター「ホロホロ」の過去編について、ずばり悲嘆するオタクの感想です。
しかし、原作を非難することは目的ではなく、色々な思いを綴る内容です。
ただ、過去編が好きな方には酷に感じる可能性があります😱原作を遡り色々言うのは今更ナンセンスだと感じる方もいるかもしれません。閲覧推奨できかねます。
また、記事の一部にオタクの夢女表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。

目次

  • 何故この記事を書くのか
  • ホロホロの過去編とは
  • ホロホロの本質とは何か
  • 本質が変換したように感じた過去編
  • ダチ想いな性格と「芝居」の関係
  • 距離を置く生活から数年
  • 過去編・未来編を考える
  • 改めて、ホロホロはどんな存在か

何故この記事を書くのか

冒頭のとおり、原作を否定したり非難することは目的ではありません。
ホロの過去編を見て、”こう感じたオタクが居た”という痕跡を残すためです。
私は”とある理由”により、ホロホロのキャラクター性の一部を失うような気持ちになりました。

さらに、過去編により、ホロホロの言動が「彼女のため」「芝居だった」で片付かれるキャラクターに変化してしまうのではないかと、恐ろしさと虚しさ感じています。

あえて痕跡を残すことにより、ホロホロの好きな部分を忘れないように、今後も大切にしたいために、記事を書くことにしました。

記事を読んで、「こういうオタクも居るのか」とか、「ホロのこういうところ、確かにあるよな」など、そんな感じに思ってもらえれば幸いです。

なお、先に言いますがダム子と武井先生は好きです。

ホロホロの過去編とは

まず、ホロホロの過去編について説明します。
ホロホロの過去編は、週刊少年ジャンプの連載が終了(2004年9月)してから、5年後に発売された完全版コミックス26巻(2009年3月発売)にて描かれ、初めて解明されました。

ここで注目していただきたいのが、連載終了してから5年後に明かされるという時間の感覚です。あえて説明する必要もないかもしれませんが、連載が終了するというのは、これ以上新しく描かれる話はないことを意味して、ファンである私は完結したコミックスやアニメを繰り返し見て、ストーリーやキャラクターを深く味わい尽くしました。自然と固定観念がつくられてから5年が経過した後に、”初めて解明”されたのです。

補足ですが、連載中はダム子の描写やフラグはありませんでした。(ハオの「さもなくばお前を好いている女を言うぞ」発言はそうとも言えますか…。)

また、連載中ホロホロの過去について触れるシーンが物語の終盤で描かれています。「狼の姿が見える」「本名は碓氷ホロケウ」というワードがそれを指しています。私はこれらより、ホロホロの過去は「民族迫害」や「ハオのように実母(今の母親とは別)の殺害」「ピリカと血が繋がってはないのではないか…」などを想像していました。

つまり何が言いたいかというと、ダム子のフラグを察していない状態で連載が終了しており、5年後にホロホロの解釈が180度変わるようなストーリーが追加されたことにより、過去編は私にとってとてもショックな体験になってしまいました。

ホロホロの本質とは何か

ようやく本題に入ります。ここからは私がなぜホロホロが好きで、ホロホロの本質は何だと思うのか、について話します。これが理由で、過去編を悲嘆することになってしまいます。

本質と言っても、ホロホロの捉え方は見る人によって異なるので「私にとって本質だと思うもの」になります。ご了承ください。

当時、私はシャーマンファイト予選の話を読んで、ホロホロを好きになりました。夢女的な意味で、です。当時はそんな言葉は無いけど、今で言うところの恐らくソレでしょう。
今でも私にとってのホロホロの本質は、予選で描かれた内容にあります。

ずばり、ホロホロの本質とは「自然と共存する人類」だと思います。
これを、原作を引用しながら説明していきます。

試合中にホロホロは自分の夢についてこう紹介しています。

「なぜならオレには夢がある。そのためにはどうしてもオレがシャーマンキングにならなきゃならねえのさ。」

「でけえぜ!オレの夢はなあっ!!なんたって見渡す限り広大なフキ畑を作る事だからな!!」

有名なセリフですね。これがホロホロの本質だと思います。いや、正確にはこの「理由」に本質があると思っています。では、なぜこの夢を叶えたいのか?

「これはコロロ…つまりコロポックル達の絶滅の危機に関わる問題なんだ。」

「人間の側に事情があるのはオレだってわかる。だが…自然の側にも事情があることを人間は何もわかっちゃいない。」

「失った自然を回復するには何百年もかかると聞いたことがある。だからオレが精霊王・グレートスピリッツと一体になった暁には、それをなんとかする力を得たいと思っている」

人間の事情や自然の消失によりコロポックルの絶滅の危機が問題になっています。そもそも精霊コロポックルとは何か?このように紹介しています。

「コロポックルはなぁ、オレ達が北の国に住むずっと前から自然と共に生きてきた連中なんだ。」

「そしてオレ達は彼らからいろんな事を学んだのさ。」

「そして何よりも人間と自然の間にはバランスを取り続けることが大事だという事を。コロポックルは我々人間と自然の調和を保つもの。決してなくなってはならないものだ。」

「だからこそオレ達はその自然を克服するのでは無く、共存する道を選んだ。自然に対し耳を傾け、その意思を理解する事で誰もが皆平和に生きられるように。

厳しい環境である北の大地へ住み始めた人間に対して、コロポックルは分け隔てする事なく、生きる術を教え説いた。そして、コロロについてはこのように紹介しています。

俺たちが自然と一体となった時 初めて出会った大切な友達なんだ。」

「精霊コロポックルのコロロはオレにとって唯一無二の友達なんだ。」

アイヌの人々が自然と一体になった時に初めて出会うのがコロポックルのようです。中でもコロロは大切な友達。この「唯一無二」という言葉から、普通の人間の私には想像し得ない程の、自然とホロホロの間に起こった尊い何かがあったのだと思い、胸が熱くなりました。とにかく、これらの理由から絶滅の危機から救いたいということです。

私はこれを知ったとき、ホロホロのことを「尊い」と思い感激しました。
尊敬するに値する神聖な人であると。自然と共存する生き方を選んだ精神の強さと、人間離れした感性を持つ神々しさに、今までに受けたことのないような衝撃を受けました。
神々しさの根底には、自然と友達を愛する情熱を持ち、それなのに、飾らない性格。それでいて、冷静な頭で人間と自然の問題を俯瞰して見つめ、先を見据えて命をかけてシャーマンファイトに挑むというのです。

完全に落ちてしまいました…。ドッキンコ…。
ホロホロがシャーマンキングになったら世界が平和になると、本気で思いました。

他にも理由はあって、私は当時「この世は支配する側か、される側のどちらか」だと思っていました。今思えばやべぇ子供です。苦笑
身近な例で言うと、親や年上の兄弟には逆らえないし、学校に行けば学校のルールに合わせなきゃいけなくて、窮屈だなぁ〜とか、早く大人になりてぇ〜とか、日々思っていました。そういえば、この頃は地球温暖化で将来が危険だというニュースが頻繁に流れていて、漠然と怖いと思ったりもしました。

要は、当時の私は「共存」「歩み寄り」という選択肢を知らなくて、大人にとって都合の良い世界に従うことしかできない自分に嫌気がさしていました。そんな中、ホロホロが「自然の脅威と共存する選択」をしていて、私にとってはありえない発想で、素晴らしいと感じ、素敵な生き方だと思いました。

また、人とは、葉くんのように「自分の幸せのために生きる」のが普通であり、その次に他人も幸せにできると思っていて、ホロホロの場合も「自分のために他者(自然)も幸せにする選択」をしている。ときには弱肉強食だと言い聞かせ理性で抑える必要が案の定出てくるわけですが、それが「他人のため」ではなくしっかり「自分のためでありながら他者との共存に命をかけられる」ところが、根っからの平和主義者なんだと受け取りました。

そして「ホロホロの持ち霊がコロロだという構図」は、本質を表す重要な要素だと思いました。理由は、まさにこれが「自然との共存の形」を表しているからです。シャーマンと精霊(自然の象徴)が、同じ一つの夢を叶えるために命を賭して戦うわけですから。

このペアは、地球で自然と生きる人類の永遠のテーマであり、絶対に最後まで見届けたい!と思いました。このテーマに対してどのような答えを導くのか?と…。

長くなりましたが、私は予選でホロホロを好きになったのもあり、ホロホロの本質は予選で完成されていて、「自然と共存する人類」にあたります。

本質が変換したように感じた過去編

先程の話を踏まえて、過去編に触れていこうと思います。ここからは今更ナンセンスだとも思いますが…綴ります。。原作の詳細は割愛します。ホロホロは夢であるフキ畑についてこのように言っています。

「それからオレは何もかも捨てて修行にあけくれた。いつかいっぱしのシャーマンになってあいつにちゃんと謝るために。
あいつの好きだったでけぇフキ畑を作るために。」

あいつとはダム子のことを指します。「ダム子の好きだったでけぇフキ畑を作るために」と。コロポックルの絶滅の危機から救うためではなかったのでは…?

「自然との共存のためにフキ畑をつくる」→「初恋の人のためにフキ畑をつくる」
私「?」

連載終了から5年後、このセリフを初めて読んだとき、
虚しいどころではなく、これまでに湧き上がった気持ちすべてが無かったことにされてしまうような感覚になりました。
目の前は真っ暗になり、手からコミックスが崩れ落ち、大切な人を亡くしたような衝撃を受け、大泣きしました。
それ以降しばらく生きた心地がしませんでした。
あと、単純に当時は夢女でしたから、夢女的にショックだったというのもありましたけど、それ以上に、自然との共存のためにシャーマンキングを目指すホロホロでは無くなったことは、1人のキャラクターの存在そのものを失った感覚になりました。

また、「唯一無二の友達」であるコロロについて特に何も描かれていないことも虚しい。

ダチ想いな性格と「芝居」の関係

ホロホロが予選で自然の共存にこだわるのは、友達の絶滅の危機を防ぐためだと説明しましたが、この友達想いな性格も非常に魅力的だと感じていました。

予選後に蓮を炎へ無理矢理連れてきたり、葉がハオを兄だと明かした時は、ホロホロは耐えられなくて葉を突き飛ばしたけど、 言葉は冷静で「言ってくれて嬉しい」って伝えつつも、本当はショックで心配だったが故の突き飛ばしかな、と思ったり。

本名や過去を隠すことに対して「芝居をしている」と言われるのですが、果たしてどこまでが芝居なのか…という問題が、過去編と付随して私としては苦しい問題になります。これまでの言動が嘘だとは思いませんが。

要は、過去に自分を「人殺し」だと思うほどの心の闇が解けなていない状態で、あのように真っ直ぐに友達に怒ることができるだろうか…と考えると、やはり矛盾している設定なのではと思ってしまうのです…。けど、当たり前ですが過去編は原作で描かれている内容なので、ホロホロというキャラクターの理解が難関になりつつあります。

距離を置く生活から数年

過去編の衝撃からマンキンと距離を取ってしまい、向き合えない悲しい日々が始まりました。原作を見返すのが怖かったです。

それでも情報は追っていて、2021年から新アニメが始まった時は心の底から喜びました。その頃の中では一番嬉しいニュースで、そのとき、私は本当にマンキンとホロホロが好きなんだなと再認識できた時はかなり嬉しかったです。

明王戦の放送日には、過去について私のように「民族迫害などかと思った」という感じでおっしゃる方が意外とネット上に多くいらっしゃったことに驚愕し、当時の自分がほんの少し報われる思いがしました。というのも、原作に対して反論するような気持ちが湧き上がる自分を自分で責めていたためです。

過去編・未来編を考える

大人になった今、多少は冷静に原作を見返すことができたので、話がそれますがダム子について少し語ろうと思います。記事の内容がこれだけではアレなので。

ダム子の根底には何があるか考えてみたのですが、「寂しさ」ではないかと。家族とは悪くない仲のようですが、普段家にいないし、引っ越しばかりで友達もいない。社会差別的な扱いを受けるホロホロが、自分と似た境遇だと思ったのだと思います。ホロホロからしてみるとダム子は「私は私だもん」と言って、「ダム子」という皮肉めいたあだ名を含めてありのままの自分を受け入れる様子に敬意を払っていますが、果たして本当に受け入れているのでしょうか。

私は、本当に受け入れているなら、ホロホロに縋り付くようなことはしないのではないかと思います。敵対する一族に近づけば嫌われるのは子供でも分かりきっているはず。だれだって自分を否定されたくないはず。なのに、ホロホロの元へ行くのは、自分の立場を理解していながらも、そうする方がダム子にとって良いことだから。

これがもし、自分をすべて受け入れた上で好きだからと近づくのは、かなり傲慢だと思います。まぁ、それも人間の一面として表現するのはいいかなと思いますが、さすがにえげつないなと。

だから、ダム子が言った「君が心から大切に思うならそれは絶対に滅びない。だから人のせいにしちゃ駄目だよ ホロホロ」という台詞は、自分自信に言い聞かせているようにも思えます。

もし本当に寂しさが根底にあるキャラクターならば、人間らしくて魅力的なキャラクターだと思います。

これ以上の深掘りは、今の精神状態では不可能でした。きっと至らない点が多い解釈なのだと思いますが、ご了承ください。

また、ホロホロの未来について。レッドクリムゾンやとうもろこしで色々描かれています。これについては今後の展開を見守りつつ…どうしていけばいいのでしょうかね。感想をまとめたかったのですがそろそろタイピングをする手が痛くなってきました。

改めて、ホロホロはどんな存在か

今でも変わらず大好きなキャラクターで、唯一無二の存在のようです。

一方、過去については「自然と共存する人類」として好きになった経緯がある限り、今後もほろ苦い経験として残るでしょう。
むしろ、その本質を否定することは、自分で自身を否定することに繋がってしまいます。やっかいなことに。

しかし、過去編の咀嚼を怠ることは二次創作に少し影響が出ていて、やはり過去編をどう受け止めていくかは課題の一つです。しかし、今すぐに気持ちをどうこうすることは難しく、ひとまず今抱えている想いは何なのかを明確にできたのはよかったです。過去編についてあれこれ思う気持ちは、ここを墓場にして置いていき、今後はもう話さないと思います。いや、多分…笑。やはり原作とホロホロが好きなので、おたく活動はポジティブに行っていきたいですし。

それでは、ここまで読んでくださりありがとうございました。これを読んでホロホロについて色々語りたいという方が万が一いらっしゃいましたら、語りましょう。笑

そして、来週はいよいよ新アニメの最終回です。超・寂しいですが、寂しいと思えることを幸福だとも感じつつ、思いっきり楽しみたいと思います。

それでは。

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